ごちゃまぜの家日誌

横浜市港北区富士塚にあります、ごちゃまぜの家の日誌です。

【11月12日】今日の日誌(みやの)

皆さま、こんにちは。
ごちゃまぜの家に住まわせていただいています、みやのと申します。
あと1週間ほどで、このおうちに引っ越して丸1年が経ちます。


ごちゃまぜの家で過ごす日々は、まるで探検家になったようです。四六時中、自分のなかに分けいって、潜って潜って何かを探しあて、掴む。確かめる。みあうと思える言葉を探す。探す。言葉にする。できないこともある。そうして浮上して、誰かに伝えたり、寝かせたり、自分の胸に飾ったりする。

そんな日々は、生きてこのおうちにたどり着けて良かった、諦めなくて良かった、と沁みるように嬉しく、有りがたく感じることや、これまで見たくないと目を背けてきた自分が炙り出されるようで、苦しい試練のように感じることなど、色々なものが混ざります。


そしてそんなふうに感じている自分のもっと奥の奥の方では、なにが起きても、どうなっても、もうなんでもOKだな、と思っている私がいて、今この瞬間、命をもっていることがもうすべてだ、と感じたりします。



この1年、私なりに生きてきて、自分が変わったと思うことは数えきれないほどたくさんあるのですが(それこそ一瞬で別人になったような感覚をもつこともある)、今思い返そうとしても、ほぼ覚えていないことに気付きました。
変わることなんて当たり前だからでしょうか。そして尊いことだとも思います。


ささやかな記憶力の私ですが、自分で気に入っている、(私にとっては)大きな変化がふたつあるので、多分に個人的なことですが少しお話させてください。


ひとつは、生まれて初めて生きたいと思ったこと。もうひとつは、これもまた生まれて初めて、自分を好きだと思ったことです。

それぞれにきっかけとなることがあるのですが、どちらもごちゃまぜの家に住まわせていただいていたから得られたことでした。
このふたつの変化は私にとって、とても嬉しいことでした。そしてそれまで以上に、なんでもOK、に拍車がかかりました。


以前から薄々気付いていたのですが、なんでもOKと思っている私は、自分の言いたいことや表現したいことなどを考えてみても、もう特に何もないな、という結論になります。
それでは人としてさみしいような、つまらない気がしたりもするのですが、そのこと自体もOKと思うと、自分がまるごと飽和してふわふわ漂ってる気分になります。


と言いつつ、生きたいと思うことと、何かを産み出したいと思うことはどこかで繋がっているような気もするので、私は私自身をまだまだ掴みきれていないのかも知れません。命が身体から放たれるのを待っているような。


とかなんとか、こんな私がしたいことって何かなあ、と自分のなかを手探りでなぞったりしていたのですが、最近輪郭をとらえたのは、あらゆるものを愛すること、です。なんだか楽しそう!
これにはもちろん、自分自身も含まれます。

色々と(それはもう色々と!)頭をよぎることはありますが、まあよぎらせておけばOKです。
あらゆるものを、そのものとして足らしめたことすべて。そのものとして今あること。
私が愛だとおもえば、もうそれは愛だということにします。
愛して、愛したその先は、とかね。何が見えるんでしょうね。


とかひとりで思ってたら、お2人の方から別々の状況で思いがけず、嬉しくなる言葉をもらいました。まるで福音のよう。

「愛のひと」
「愛しぬくこと」






取り留めなく書いてしまいました。
言いたいこと何もないんじゃなかったのか、という感じですね。矛盾イエス


最後に、これまで日誌上で私の名前をみやのと自己紹介してきましたが、これは偽名です。
本名は、岡野真由子と申します。
1年前の私は、公の場所に本名で文章を書くことも、怖くてできなかったんですね。


長くなりました。
読んでくださり、ありがとうございます。

だんだん冬めいてきましたね。
温かくなさって、どうぞご自愛くださいね。

よい1日を。