ごちゃまぜの家日誌

横浜市港北区富士塚にあります、ごちゃまぜの家の日誌です。

【12月23日】今日の日誌(あきと)

 


こんにちは、稲村彰人です。お久しぶりです。

 


突然ですが、年内をもってごちゃまぜの家は終了することになりました。二年前の春、坂爪圭吾さんが発起して多くの人の支援を受けて活動を開始して以来、私を含め、数多くの人がこの場所に訪れました。一つの家を「無料で誰でも自由に使える空間」として開放する、というのは、当時も今も他にあまり例を見ない意義あるプロジェクトだったと思います。


私は二年以上にわたって、主に管理人という立場でこの場所に関わらせていただきましたが、それも今日で終わります。支援していただいた皆さん、遊びに来てくれた皆さん、インターネットの向こうで応援してくれていた皆さん、住人の皆さん、坂爪さん、関わりのあった全ての方々、本当にありがとうございました。大変お世話になりました。

 

 


振り返れば、いろいろなことがありました。ただ、今はまだこの場所での日々のことが私の人生にとってあまりに多すぎて、うまく言葉にできません。初めて来たときのことをもう振り返っても思い出せないくらい、遠くに来たような気もしています。


ここに居るとよく「どうしてごちゃまぜの家に関わるようになったのですか?」と尋ねられました。この質問への答え方は難しく、いつも「家主の坂爪さんが同郷の先輩で」とか「成り行きで」などと言葉少なに答えていました。ちゃんと答えようとするほど話が長くなって、また内容もどんどん個人的になっていくので、どこまで話をすべきかを考えて、結局、あまり話しませんでした。


ただ今日は最後なので、この場をお借りして、管理人としてというよりは私自身として、少し長くなりますが、話をさせていただきたいと思います。

 

 


ごちゃまぜの家という場所は、私にとって特別な場所でした。このような場所はほとんどないので、きっと他の多くの方にとっても特別だったと思いますが、恩恵を受けたという意味では、おそらく私以上にごちゃまぜの家に恩のある人はいないだろうと思っています。私にとってこの場所は、家でもあり職場でもあり、遊び場でもあり道場でもあり、詰所でもあり戦場でもありました。もちろん「無料で自由に使える場所」でもありました。ただ、いつもそれ以上の意味を考えさせられる場所でした。

 


そもそも、私が発起人である坂爪圭吾さんと初めてお会いしたのは、五年前。私が二十一歳だったときに、きっと多くの人にとってもそうであるように、彼のブログをインターネットで読んで、強く揺さぶられるものを感じて、ちょうどそのときたまたま坂爪さんが主催していた「皆で一緒にカレーを作って食べよう」という会に参加したのが初めてでした。もちろんまだごちゃまぜの家はなかった頃ですが、自由に場を開くということを坂爪さんは当時からすでにやっていて、そこに参加をしたのでした。

 


ただ、当時の私は、とてもではないけれど皆で一緒にカレーを作って和気あいあいと食べられるような人間ではなく、というか、人間であったかどうかすらよく分からないくらい、曖昧な中で日々をただ生きているだけの存在でした。もちろん今でも私は不出来な人間ですが、当時はそれどころではなく、純粋でしたが、それだけでした。和やかなカレー会でしたが、決死の思いで参加しました。

 


それから紆余曲折を経て、ごちゃまぜの家で「管理人」をするようになるのは数年後のことでしたが、そんな私が、今度は逆に、来る人を迎える側の立場になるというのは、私にとってかつてのない挑戦でした。

 

「管理人ってどんなことをするんですか?」という質問もよく受けました。これにも「掃除をしたり、遊びに来てくれた方にお茶を出したりする役です」などと答えてきましたが、もっと深いところでは、私自身でさえ何をすれば正解なのか分からず、自分がやっていることは何なのか、この場所にとって自分とは何なのか、いつも自問自答していたというのが正直なところです。そもそも「ごちゃまぜの家」というところがどんな場所なのかも、「無料で誰でも自由に過ごせる空間」ということ以外、はっきりと答えられたことは一度もありませんでした。


いま思うのは、この家は「どこに行ってもお金が掛かり、どこにいってもあまり自由には過ごせない」と感じることの多い社会の中に、ぽっかり空いた穴のような場所だったのかな、ということです。ここを訪れる人の多くは、家主の坂爪さんが運営するブログを通じて、この場所を知ります。彼の描く理想に自分自身の志を重ねながら、その人の思う「自由」に従ってこの場所を過ごす。人によって「自由」の意味が変わることも、それらがときに対立することがあることも織り込み済み。だから、空間を占める人によってこの場の雰囲気がガラッと変わりました。私自身、管理人という立場ではありましたが、訪れた人とあくまで対等という意識でいることを心掛けていました。管理人とはいいながら、居ないこともかなり多くありました。私ばかりがこの場所の雰囲気に影響を与えることが良いと思えなかったからです。

 


そのような場所だからか、ここで会う人とは、自然と生き方のようなことについての話をすることが多くありました。何をしてもいいからこそ、したことの根拠と理由がつねに自分に返ってくる。自分がそこにいる以上、場に対して責任を持たざるをえない。誰のせいにも出来ないからこそ下手なことはできない。そのような中で過ごすことには、つねに独特の緊張感がありました。私はここで、背筋を正されるということを生まれて初めて経験した気がします。

 


心に残っている出来事はいくつもありますが、とくに、かつての私と似たような思いを抱えた人と話すときに、心臓を内側からギュッと掴まれるような気持ちになったことは忘れられません。かつての自分が他人に求めていたものを、今は自分が他人から求められている。自分の話す一言一言が、目の前にいる人のこれからの人生にとって決定的なものになるかもしれない。そんな風に、何か責任のようなものを感じて怖くなると同時に、ずっと自分が考え続けてきたことを同じ深さで誰かと分かち合うことのできる嬉しさも感じました。何かを誤魔化して生きそうになっている自分の頬を、ひっぱたかれるような痛さもありました。

 


昔、ごちゃまぜの家が始まる数週間前、東京の喫茶店で「あきとはもっと多くの他人の前に立つべきだと思う」と坂爪さんに言われたことを覚えています。それがどんな意味だったのか今となっては分かりませんが、実際、この場所で多くの人と特別な時間を過ごして、また、会ったことのない人ともインターネットを通じて知ってもらって、本当に良かったと思っています。どれもここに関わらなければありえないことでした。本当に感謝しています。

 

 


ごちゃまぜの家の終わりとともに、これから私自身もまたこの場所を離れて、新しい道に進みます。


初めて会った人と話をしたり、何かをするでもなくお茶を飲んだり、掃除をしたり、花を生けたり、料理を作ったり作ってもらったり、歌を歌ったり、考えても1円にもならないことで悩んだり。この何年もの間、私がしてきたことといえばそんなことばかりでしたが、私にとっては不思議なくらい自然で、むしろ一人の人間として生きていく上で必要なことを一つずつ重ねてきたような感覚があります。また、こう書くと矛盾するようですが、ごちゃまぜの家で過ごす時間はときに社会で過ごすよりも厳しく、そのことが私自身にとっての大きな糧になりました。

 

生きていればいろいろなことがありますが、自分から他人と関わろうという気持ちさえあれば、そこには必ず誰かがいます。どうしようもない気持ちになったときに、近くに誰かがいるというただそれだけのことが救いのように感じられることが私にもありました。


この場所で多くの時間を過ごしてきた私にどれくらいのことが出来たのか分かりませんが、もし他の人たちにとってもこの場所がそのようなところであったら、とても嬉しく思います。


この場所で二度とない時間を過ごせたことを誇りに思います。それでは、大変長くなってしまいましたが、以上で話を終わります。さようなら!

 


稲村彰人