ごちゃまぜの家日誌

横浜市港北区富士塚にあります、ごちゃまぜの家の日誌です。

【5月19日】あらたな展開を迎えるごちゃまぜの家(よりこ)

終わりのとき

いきなり衝撃的なご報告なのだが、実は、新しい仕事が決まり、明日、ごちゃまぜの家を出ることになった。
なので、このごちゃまぜの家日誌の更新も、今日が最後となる。

 

そして、どうやら、ごちゃまぜの家も新たな展開を迎えるらしい。

詳細については乞うご期待!

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昨日、参加者のおひとりに、ごちゃまぜの家を出てからも、ブログを続けるのかと聞かれた。
多分、続けないと思う。

このブログを続けることは圧倒的に時間のある今だからこそできることであって、仕事をしながら書き続けるのは難しいだろう。
時間があるからこそ自分と向き合い、このブログが書けているんだと思う。
そういう意味では、私は今、療養中なのだと、この文章を書いていて気づいた。

それから、この日誌は、ごちゃまぜの家にいるからこそ綴れているとも思っている。

よく、住人のYさんが世間のことを下界と表現されているが、まさにその通りで、私にとってごちゃまぜの家は、異質な空間で、非日常なのである。

非日常で起きたことは文章にしやすい。
起きたことを文字にしているだけで、それなりのクオリティのものができあがる。

これからまた新しい仕事に就き、日常に忙殺されていくと、書き手が同じであっても同じような出来はのぞめないだろう。

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現代の吟遊詩人

ごちゃまぜの家で、坂爪さんの印象ほど、十人十色のものはないだろうという話になったことがある。

今の私にとって、坂爪さんは父親のようなイメージである。
それも現代のやさしいお父さんではなくて、一昔前の昭和の父親、言わなくても察しろ、背中から学べ的なお父さん。

坂爪さんのことを、自分の気持ちに正直で、実に身勝手だと思っている方も多いことと思う。
イベントの主催者が気に入らないから主催者の家に泊めてくれるという申し出を無碍に断り野宿したとか、坂爪さんを囲む会で遅刻してきた上に昼寝だけして帰ったとか、彼ならやりかねないと思わず納得してしまうエピソードも多々ある。
今回の出版を断った話もそうだが、彼の辞書に迎合するという言葉はないのではないだろうか。

しかし、私は坂爪さんは人のことをよく見ていて、そして、実によく考えていると思っている。
先日の説教も、私のあまりにも卑屈な態度が目に余るというか見るに見かねてのことだと思うし、私のそういうありかたが、彼のある部分を刺激し、反応してしまったというところもあるとは思うが、本当のこいつはそんなもんじゃないはずだ、と慮ってのことだろうと勝手に思っている。

昨日もワークショップの終盤に顔を出し、参加者の方に今日はどうでしたかと声をかけてくださり、参加者の声を聞いて安心した様子で家を後にされた。
思ったより早くに帰ってきたのも、ワークショップを開く私のことが心配で見にやってきたのかもしれないと、まるで娘を心配している父親のようだと勝手に思っている。

坂爪さんを玄関でお見送りしたとき、彼は、よりこさんいい表情をしているねとおっしゃった。
そのときに、坂爪さんのおかげです、と答えられたらパーフェクト、100点満点だったのだろうと今では思うけれど、不器用な私はそんな粋なことは何も言えず、ただ見送ることしかできなかった。

モノに対しての愛着も深く、いったん大事にすると決めたものには本当に手をかけている。
この辺は、わたり文庫を受け取ったことがある方には理解してもらえるのではないだろうか。

説教を受けたあの日から、何か不安な感情がわきあがっても、大丈夫という彼の言葉が降ってくるようになった。
直接のやりとりはないが、守られているという安心感があり、私の中での存在感は日に日に増し、確固たるものになりつつある。

そういう意味で、今の自分の中では大きな存在であり、すごく身近に感じていて、かけがえのない存在だ。

 

一方で、彼のブログいばや通信を読んでいらっしゃる方は、なんて悟った人だ、達観しているなという印象を抱いている方も多いのではないかと思う。
私が一読者だったときはそうだった。

ワークショップの参加者も彼の記事に何度も救われたという趣旨のことをおっしゃっていたが、彼の言葉は多くの人の心をゆさぶるものなんだと思う。

かといって、実際に彼ができた人間かというと意見が分かれるんじゃないかなと思う。
やんちゃで無鉄砲なところもあるし、自分が嫌なところは譲らない。

人から持ち上げられ、誉めそやされることも多いが、実際の彼を見て失望する人も少なからず存在するのではないか、そう思っている。

中には、くだらないことをつべこべ言ってないで、さっさと働けと思う人もいるかもしれない(という視点は住人のYさんとの雑談から出てきた、私の中にはなかったもので、そういう考え方は目から鱗だった)。

でも、実際にそうなってしまったら(もちろんそうなる確率は皆無だと思うが)、彼は彼ではなくなるんじゃないかと思う。
彼の職業は坂爪圭吾であり、それが生き様なのではないだろうか。

そういう彼の生き方を、住人のYさんは現代の吟遊詩人と表現していた。
私は言い当て妙だなと感じた。

彼の生き方は、現在では珍しい生き方であると思う。
だけど、昔から同じような生き方をしていた人がいて、新しいわけではない。

ところで、以前、坂爪さんと気楽に話ができる住人の方がうらやましいと書いたが、なぜ坂爪さんが彼女とよく会話を交わすのか、ごちゃまぜの家で過ごしている間にわかったような気がした。

彼は、有名人坂爪圭吾として扱って欲しいのではなくて、純粋なひとりの人間坂爪圭吾として扱われたいのだと思う。
よく坂爪さんと話をしている住人のYさんは、坂爪さんてそんな有名人なんだ、そうだよね、わたり食堂などのイベントで、あれだけ人を集められるなんてそうそうできることじゃないよね、と彼が有名人なのはどうでもよくて、ぜんぜん特別視していない。
彼はそういうYさんの接し方が心地いいのだろう。

私もそういうふうに接することができればそれに越したことはないのだが、今となっては雷親父的な畏れ多い存在で、ますます普通に接することは難しい状況だ。

いつかサシで、お酒を酌み交わしてみたいものだ。

彼がお酒をたしなむかは存じ上げないし、そもそも私はアルコールを一切受け付けられない体なので、実質のところは無理なのだが、それに値するようなことができる日が来ることを願ってこれから生きていこうと思う。

 

それではまたお会いできる日までごきげんよう、さようなら♪

 

つぼぐちよりこ